副書廊白
□諦めた女と諦められない女
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織田義姉弟(b長政とm濃姫のbお市の話)
それは唐突な呼び出しだった。
妻の実家である安土城に義姉の名で呼び出された長政は、到着して初めてそれが自分のよく知る義姉ではなく分身とも呼べるもう一人の方の濃姫の命であったと知った。
「私に何用でございますか、義姉上。」
目の前の妖艷な美女は、義弟とはいえ己の呼び出した客人の前であるというのに畏まる様子をちらりとも見せない。
「別に急ぎの用じゃなかったのよ。ただここしばらく暇だったから。」
自分の知る義姉と違い彼女は夫の政務を手伝うような性分でもなければ城中の者を気遣ったりするような性格でもないので、戦の無い時はそれは暇であろう。
しかし自分は違う。一国の領主であり、今も多くの政務を城に残してここにいる。
「用がないのなら帰りますが。」
言外に怒りを込める。
が、当の相手は何処吹く風。
本当にこれがあの穏やかで優しい義姉と存在を同じくする者なのだろうか。
ここまでの傍若無人な振る舞いに文句の一つも言えぬのは、それが己の実姉と重なるからであろうか。
非を正せぬのは悪と思いながら口答えできぬ、悲しき弟の性である。
「ふふ、そんなに怒らないで頂戴。用がないとは言ってないでしょ。そんなんじゃ、きっとお市も苦労してるわね。」
突然出てきた妻の名に困惑しつつも、だからなんだと言わんばかりに長政は濃姫を睨みつけた。
「あの子を大事にしてやりなさいよ。」
一瞬耳を疑った。
唯我独尊を地で行くような彼女から、まさか義妹であるお市を心配するような言葉が出ようとは。
彼女の義妹であるお市の分身と彼女のやり取りを見たことがあるが、そちらの方は小娘扱いで心配などしているようには見えなかったのに。
まして己の妻のお市は消極的で自虐的でこの濃姫とは正反対、むしろ嫌っていそうな印象まで持っていた。
「不思議そうな顔してるわね。あの子のこと、嫌ってると思って?」
図星を突かれて二の句が継げずにいる長政を、おもしろそうに見ながら濃姫は続ける。
「わかるのよ。私は、一度諦めたから。」
長政にはなんのことだか分からなかった。この傲慢な女は、自分は諦めたと言った。では、あの泣き虫で弱気な妻は諦めていなというのか。
一体なにを?
「泣くのは諦めていないから。戦うのは手放したくないものがあるから。あの子は
瞳に深い深い闇と絶望を宿しながら、一筋の希望に縋るような眼をしているわ。」
いつもと声色は変わらない。
けれどどこか遠くを見つめるような、そんな目で濃姫は語った。
「あの子に何が見えてるのかは知らないけれど、それはきっと想像もつかないほど辛いことよ。長政、あの子が泣いているうちは、諦めないでいるうちは、守ってやりなさい。それが貴方の最も優先すべき正義よ。」
お市とこの義姉がまみえたのはほんの僅かな時間であったはずだ。
それなのにこれだけのことを見抜いて、案じて、最後に殺し文句で釘までさしてくる義姉に、流石に感服した。
やはり彼女は己の知っている義姉の分身であると思い知った。
その後長政は改まって返事をし、謹んで義姉の御前を辞すれば、帰り道はただひたすらに己の帰りを待つ妻のことを想って馬を走らすのだった。
「お濃、あの傀儡を、それ程に気に掛けるか。」
義弟が去ってしばらく後、濃姫の部屋に現れたのは彼女の夫であった。
「傀儡じゃないわ。一人ではどうしようもないものに必死に抗っている。兄という存在に、もっと大きななにかに。あの子も、こちらのお市も、どうなってしまうのかしらね。私みたいに諦めてしまうのかしら。それとも…」
「是非もなきこと。」
「ふふ、運命なんてどう転ぶかわからないのよ。一度諦めた私に、貴方がいてくれたように。」
そう行って濃姫は夫を見、純真な義妹を想い、そして哀れで健気なその分身のことを想った。
【諦めた女と諦められない女】